[#ここから1字下げ] 物語を「食べちゃうくらい」深く愛している�文学少女�天野遠子と、平穏と平凡を愛する「今は」ただの男子高校生、井上心葉。数々の悲しく苦い物語を軸に進むこのシリーズ、しかし何と言っても、第一の魅力は、物語を愛するあまりホントにむしゃむしゃ食べちゃうこの自称�文学少女�の熱い言葉。というわけで、ファン待望、遠子先輩が本日の「おやつ」について語り倒す文芸部の放課後を描くショートショート、ついにWeb連載スタート! [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] �文学少女�の今日のおやつ [#地から2字上げ]野村美月 [#地から2字上げ]イラスト 竹岡美穂 メインキャラ紹介 天野遠子  Toko Amano [#ここから2字下げ] 外見は、三つ編みに細い身体、白い肌の、まさしく古き良き時代の文学少女で、すみれの花なんかがよく似合う清楚なお嬢さん。 しかしてその内実は、食いしん坊でおしゃべりで、しかも物語を「食べちゃうくらい」愛するあまり、ホントにむしゃむしゃ食べてしまう�文学少女�なのだ。 [#ここで字下げ終わり] 井上心葉  Konoha Inoue [#ここから2字下げ] 遠子の後輩で、文芸部唯一の平部員にして、現在は部長の遠子の�おやつ係�。せがまれるままに、三題噺を書いている。 実は中学生の頃「天才覆面美少女作家」だった過去を隠し持っているが、今は目立たず平凡な男子高校生として毎日を過ごしている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第1回 『更級日記』  こんな遠子先輩を見た。  5月のゴールデンウイーク明け。  若葉の香る朝の通学路を、学園の制服を着た女生徒が、とことこ歩いていた。  糸杉みたいな、すとんとした体つき。  腰まである長い長い三つ編みが、猫の尻尾みたいにひょこひょこ揺れている。  白いうなじが、儚くうなだれているのは。決して落ち込んでいるわけではなく、手にした本のページを、夢中でめくっているのだろう。  あ、遠子先輩だ。  また歩きながら本を読んでいる。  危なくないのかな? あれ?  足元や前は、ちゃんと見えているのだろうか?  以前、文芸部の部室に、靴下が干してあったことがある。  クリスマスにはだいぶ早いけれど、一体これは? と眺めていたら、後ろで、ぺたらんぺたらんと足音がし、 「よかったあ。乾いているわ! ヘッセの『シッダールタ』を読んでたら、つい夢中になって水溜まりにはまっちゃったの。おひさまが出てきてよかったぁ。きっとお釈迦様のお導きね」  と何がどう導かれたのかわからないことを満面の笑顔で言いきった。  そうしてパイプ椅子に腰かけ、ゆるゆるの上履きを、ぽとんと脱ぐと、ぼくの目の前で、せっせと靴下を履きはじめたのだった。  雲ひとつない五月晴れの今朝、道路に水溜まりはない。  遠子先輩は、快調に読書を続けている。  下手に声をかけて、朝から薀蓄を聞かされても困るので、適当な距離を保ったまま後ろを歩いていると、  ふいに、遠子先輩が立ち止まった。  手に開いた文庫本を持ったまま、道路の右の端をじーっと見つめている。  そこはゴミの集積所で、新聞紙や雑誌、ペットボトルや空き缶などの資源ゴミが置いてある。  そのまま、1秒、2秒……。  足を止めたまま、ゴミの山を見つめていたが、  やがて、こくり、とうなずくと、そちらのほうへ、ふらふら歩いていった。  ?  ?  ?  ゴミの前まで来ると、膝を折ってしゃがみ込む。  そうして、実に嬉しそうに唇をほころばせ、  にっこりと、  可愛らしく、  無邪気に、  笑ったのだった。  その、一見可憐なー�にっこり�に、不吉なものを感じ、背筋がぞくっとした。  見なかったことにしよう。  これまでの例からそう判断し、くるりと横を向き、脇道にそれたのだった。 [#ここから9字下げ] [#ここで字下げ終わり]    ◇  ◇  ◇  放課後はいつものように、文芸部へ出かけた。  校舎の西の隅にある古い本に占拠された小さな部屋は、何故かペンキ臭かった。  ゴミ箱に、赤い染みが飛び散った新聞紙が、まるめて捨ててある。 「さあ、心葉くん。今日のお題は、�笹舟��恋文��棒高跳び�よ! うんとロマンチックな甘いお話を書いてね。制限時間は、きっかり50分。はい、すたーと!」  遠子先輩が。銀色のストップウォッチをかちりと鳴らす。  ぼくが原稿用紙にHBのシャーペンで文字を綴る間、遠子先輩は窓際のパイプ椅子に足を載せてお行儀悪く腰かけ。読みかけの文庫のページをめくる。  そうして。愛おしそうに指でページを端から、びりっと千切っては口に運ぶ。  遠子先輩は物語を食べる妖怪なのだ。  紙に書かれた文宇を密かな音を立てて咀嚼し、幸せいっぱいの表情で飲み込み、薀蓄を垂れる。 「あー。美味しい! 『更級日記』は、おひな祭りにいただく茶巾寿司の味ね。  上品なダシのきいたしいたけや、ふっくら焼き上げた穴子。香ばしい白ごま、粟、そんな具だくさんの酢飯を、ほんのり甘い薄焼き卵が、可憐に包んでいるのよ。  平安時代に書かれた作品なのに、すごく身近で、可愛らしくて胸がキュンとしてしまって、なのに読み進めば進むほど、お酢の味が強くなっていって、最後はしみじみとした無常観に胸がいっぱいになってしまうのよ。  作者は菅原孝標女。今から千年近くも前に生まれた貴族のお嬢様よ。  彼女のご先祖様は、学問の神様と言われている菅原道真で、伯母さんは『蜻蛉日記』のあの藤原道綱母なのよ。  心葉くんは。菅原道真を知っている?」  ぼくは樫の木のテーブルで、原稿用紙にさらさらと三題噺を書きながら答えた。 「政治闘争に敗れて大宰府に左遷されて、未練たらたらの歌をうたって、そのあと怨霊になった人ですよね」 「え、や……その、怨霊はいいのよ」  遠子先輩が何故か、そわそわする。 「それにわたし、怨霊とか幽霊とか信じてませんから。そういうものは、人の心が作り出した迷信よ。全然怖くありません」  どこか引きつった笑顔で主張し、話を戻す。 「えへん。とにかく、『更科日記』の作者は、そんな学問の名家に生まれたのよ。  彼女は幼少時代を、お父さんのお仕事の都合で。京から、離れた上総の国で育つの。  そこで、京で流行っている『源氏物語』の話を耳にして、自分もぜひ読んでみたいと熱望するのよ。  この少女時代の物語への憧れを語った部分が、本当に健気で可愛らしいの!  羽のように薄く軽く焼き上げた甘い卵焼きが、口の中でほろほろと崩れていって、その中から、ふんわりした穴子や。ほっくりした栗が出てくるのを、ドキドキしながら待つような感じなの!  彼女が、どうかありったけの物語を見せて下さいと仏様にお願いする姿には、どっぷり共感してしまうし。『源氏物語』の若紫の巻だけを読んで、前後わからなくて、もどかしくてたまらずにいるところなんて、他人事とは思えないわ。  そうしてついに、彼女は。『源氏物語』全50余巻を手に入れるのよ!  ここが最高に、ドキドキして、甘くて酸っぱくて美味しいの!」  遠子先輩が熱っぽい声で、古典の授業でおなじみの箇所を続み上げる。 「『はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず几帳の内にうち臥して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ』──。  ああ、わかる! わかるわ! この気持ち!  高く積み上げた物語を、まだ続きがある、まだまだ読めると思いながら、次々ページをめくってゆく喜び! 無限の高揚感! 疾走感! 『はしるはしる』──この部分を口にするたびに、彼女の感じている甘い幸福感が、舌の上にいっぱいに広がるの。  茶巾寿司を両手で持って思いきり頬張ったみたいに、とても1度では飲み込めなくて、けれどそれがとっても幸せで、美味しくて、うっとりしてしまうのよ。  ああ。わたしも、王子様のプロポーズよりも、物語を読む至福を選ぷわ!」  高らかに断言し、食いかけの文庫本を抱きしめ、目を閉じて溜息をつく。 [#ここから9字下げ] [#ここで字下げ終わり] 「他にもね、京へ来るまでの旅の光景や、そこで聞いたその土地にまつわる伝承とか、お姉さんや義理のお母さんとのしみじみとした交流とか、味わいどころ満載なのっ!  しいたけをぎゅっと噛んだときに滲み出るダシが素敵なのっ!  穴子が口の中でとろけるのっ!  固めに炊いた酢飯と、栗の甘みが絶妙なのっ!  巾着を包むかんぴょうまで、コシがあって美味しいのっ!」  そうして目を開け、今度はしんみりした口調で言った。 「この日記は、10代の彼女がリアルタイムで書いたものではなく、50代の彼女が過去を回想する形式で書かれたものなのよ。  だから、いつまでも夢見る女の子のままではいられなくて、だんだんと現実を知るようになっていって……、最後は、彼女は、いろいろなものを失って独りぼっちになってしまうのだけど……。  でもね、こんな風に過ぎ去った昔を、懐かしく温かく振り返ることができるのは、決して不幸なことではないと、わたしは思うのよ。  きっと。10年、20年と齢を重ねてゆくごとに、この日記は共感できる部分が増えていって、別の味わいが出てくるんじゃないか──そんな気がするの」  その味を想像したのか、遠子先輩の口元にあたたかな微笑みが浮かぶ。 「そうそう、それとね、最後の章まで全部読み終えたら、そこで終わりにしないで、ぜひもう1度、最初の章から読み直してみて!  そうすると。少女時代の思い出が、切なさときらめきを増して、なんともいえない深い味わいを堪能できるはずよ」  そんな風に、ひとしきり語りまくったあと、遠子先輩は食事に戻った。  嬉しそうに、かさこそ、ぴりぴりやりながら、 「ねえ、ねえ、心葉くん、茶巾寿司のあとのデザートには、夏蜜柑のゼリーなんか合うと思うの」  と、期待に満ちた視線を向けてくる。 「そういうリクエストは、もっと早く言ってください」  ぼくは書き上げた2枚の原稿を、ピッと切り離し、差し出した。 「はい、できました」 「わぁい、いただきまーす」  遠子先輩が、さっそく手にとり食ぺ始める。 「むぐむぐ……棒高跳びをしている先輩に、恋文を出すのね。うふっ、可愛い〜、しゅわしゅわのメロンソーダを、バニラアイスと一緒にいただいているみたい。喉の奥がくすぐったいわ。  え? あら……? ええ? ちょっと待って。どうして。笹船に乗って、棒高跳びの修行に行っちゃうの〜〜〜〜〜!!!!!!  やだ〜、メロンのソーダに、タバスコを振りかけたみたいな味になってきた〜。喉にイガイガが、突き刺さる〜〜〜。アイスの代わりにクラゲが浮かんでる〜。  心葉くん、ひどーい、最後、投げやりすぎよぉぉぉ。手抜きだわ!」  必死に全部飲み込んだ遠子先輩は、半べそでぼくを睨んだ。 「うぅ、せっかく今日は朝から、いい日だなって思ってたのに」  遠子先輩の奇妙な行動を思い出し、ドキッとする。 「今朝、なにかあったんですか?」 「心葉くんには、まだ内緒」  タバスコ入りのメロンソーダの怨みか、ぷんと頬をふくらませ、それからすぐに、  にっこりと、  可愛らしく、  無邪気に、  笑ったのだった。 「すごぉぉぉぉぉく、いいことよ。今にわかるわ。うふふ、楽しみ。  ああ。わたしも。『更級日記』の作者のように、世界中のありとあらゆる物語を食ぺ尽くしたいわ」  部室に入ったときに感じたペンキの匂いが蘇り、ゴミ箱に投げ捨てられた新聞紙と、そこに飛び散る赤い染みが再び視界をよぎる。  加速してゆく不安に、ぼくは全身がぞくぞくするような寒気に包まれたのだった。  遠子先輩が校舎の中庭に。ゴミ捨て場で拾ってきた郵便ポストを不法設置したことを知るのは、この数日後である。  ペンキで赤く塗り直したポストには、こう書いてあった。 �あなたの恋を叶えます。� �ご用の方はお手抵をどうぞ。� �by 文芸部一同� [#地から2字上げ]─完─ [#地から2字上げ]Mizuki Nomura [#改ページ] 本日の作品〜『更級日記』 作者はば菅原孝標女【すがわらのたかすえのむすめ】。学者の家柄であり、父の孝標は受領階級で終わったが、作者の兄をはじめ縁者の多くが学問・文芸で活躍している。『蜻蛉日記』の藤原道綱母【ふじわらのみちつなのはは】は伯母にあたる。  寛仁4年(1020年)、13歳の時、父の任国上総国を出発したことに筆を起こレ。物語にあこがれた夢多き少女が、両親の生き様、宮仕え、結婚生活など、厳しい社会生活を通して現実を知ってゆくことになる、少女時代から老境までの約40年間の人生を回想した記録が『更級日記』である。  夫と死別した作者がひとりわび住まいをすることになる康平2年(1059年)、作者52歳の時で筆は置かれており、作品の成立はこの年以降数年の間と見られている。 参考文献 『更級日記 現代語訳付き』 原岡文子訳注、。角川ソフィア文庫 株式会社角川書店、平成15年12月25日